千葉 小4女児虐待死事件。
事情はわからずとも、痛ましさにどんよりする事件。
首相は 「関係機関のさらなる連携強化などの対応策を協議する」と述べた。(東京新聞2019.2.8)らしいし
関組織の責任者らしき人が「連携」について語るのをニュースで見た。
期待を感じることのできない、具体的中身をイメージできない「言葉」。
一方で。
国連子どもの権利委員会の会見で、
「女の子は何人もの大人に相談したはず」
「大人は対処するのが自分の責任だと思わなかったのではないか」
との発言があった。(NHK おはよう日本 2019.2.8)
まさに、これこそ本質ではないか。
ひとりでもいい。自分の責任、として感じて行動できる人がいれば。
現場にはいたのかもしれない。状況が許さなかったのかもしれない。
組織の長は、責任をあいまいにする可能性のある「連携」よりも
(↑誰が責任者になるのか? 何の責任をとれるのか?)
責任を感じる「現場」を支援する「状況の改善」「環境づくり」にこそ力を注いでほしい。
どんな「状況」かを理解する努力もせずに「連携」を急ぐとしたら、
状況はいまより悪くなる。
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*サンドバルグ委員は、同事件について「起きてはならない残念な事件だった。誰か大人が反応すべきだった」と述べ、日本社会全体で向き合うべきだと指摘した。
と紹介される場合が多いが、
「女の子は何人もの大人に相談したはず」
「大人は対処するのが自分の責任だと思わなかったのではないか」の方が、真に迫っていると思う。