知らなかったことを知る。
そのこと自体で「面白い」。「気づく」ということが「面白い」。
知った内容が、面白い=楽しい、笑っちゃう、内容でなかったとしても。
原爆。
面白いものであるはずはない。
が、
歴史の教科書、悲惨な体験、8月6日、8月9日、ナガサキ、ヒロシマ。
すぐに頭に浮かぶこと以外の事柄を知ると、
自分の知っていることの小ささに気づき、脱皮するような、視界が開けるような感覚を覚える。
たとえば、
●原爆ドームのあった場所は、繁華街だったんだよ。
まわりは当時から公園だったわけではない。
もともとは「広島県産業奨励館」という建物だったとは知っている人でも、
公園に単独で建てられた建物だと思いがちでは。
そうじゃないんだ。
その周りにあった街並みが「消滅」して公園になった。
どうです?
印象は全然違うのでは?
●落とされた原子爆弾の長さは3m、重さは4トン
大きさや形を、重さをイメージすると、モノとしての存在を実感できる。
モノは自分では動かない。
作った人がいる。落とした人がいる。企画した人がいる。
その存在を実感できる。
●被爆したとき、それが「原爆」だとはわからなかった。
当たり前だと思うかもしれないが、現場では切実でしょう。
隣町に行こう、山を越えて逃げようと思って、いけどもいけども対地も被災している。
全体像がわかっている今の視点から、被爆者の当時の状況は想像できない。
(未だにわかっていないかもしれないが)
いったん、知っていること、今見えていることを捨てて、想像してみると全く違うものが見えてくる。
藤原新也の本に、「面白い」とは、と納得できる話がのっていたのだが、見つけることができない。語源を引いて「面」が「白く」なること、とあった記憶がある。
語源を調べると「面」は目の前、「白い」明るくてはっきりしていること。
目の前が明るくなった状態をいうという。
原爆という大きく重いものに対して、自分としての感想を持ち立場を持っていくためには、自らの腑に落ちる「面白い」=目の前を明るくはっきりさせる事柄、情報に触れることが大切ではないか、と思うのだ。