電車の扉口を死守したい人について考える ~「公共」ということ

電車のとびらが開いて、乗り込もうとする人がいるときにも、扉口に建っている人が入り口を譲る気配を見せない場合がある。

 反対に、電車のとびらが開いて、降りようとする人がいるときも、開口したドアの前を動かず、降りる人の流れが細くなってしまう(あなたがよければ3人幅で出られるのに、陣取っているために1~2人幅でしか出られないのよ、といった)光景は、最近では普通である。

 

なんだか、もったいない話ではないかと思う。

公共の場では、全体がうまく回るように配慮できると自分にとってもメリットがある。

 

あなたの立ち位置を変えるだけで、人流がスムーズになる。

人流が滞ることで、少しずつ遅れる電車の発車時刻。

これは自分にとってもデメリット。

その遅れが解消されるなら、自分にとってもメリットある行動になる。

 

なぜ気づかないか。

 

自分の「急ぐ」気持ちが先に立つのか。

だれかに「譲る」のが損するようで嫌なのか。

自分の立ち位置が邪魔になっていることに気づかないのか。

世の中にイヤがらせしたい気分になっているのか。

 

「譲る」ことで、自分の気持ちを「抑える」ことで、自分にもメリットある。

そんな公共視点が広がるといい。

 

*関連で、電車のとびら口について考えてみた。