大学に行きたいけれども、格差によって行くことができない。
のであれば、「分断」「格差」かもしれない。
そういう例も少なからずあるかもしれない。
しかしながら。
私の身近で見聞きする限り、「非大学卒」の人が、
・「大学卒」になりたかった、とか
・「大学卒」の能力を評価する、とか
いう例はあまりに少ない。「大学」を評価していないのである。
「大学卒」になりたかったのか?は、疑問である。おそらくNo!であると思う。
実務場面では、むしろ「大学卒」のサラリーマンが右往左往し、うろたえるのを「非大学卒」の人が真摯に支えている場面に遭遇することが多い。
そうした職場で「無意識的偏見」についての社内研修があったとか。
「女のくせに、男のくせに、と思うことがある」という問いには3割くらいの挙手があったが、「あの人は「大学卒」だから仕事ができると思ったことがある」への挙手は皆無だったそうだ。
私の印象と一致する。
「大学卒」者への評価は、決して高くない
・・・むしろ「「大学卒」だから実務は期待できないよね」というのが暗黙の了解かもしれないとさえ思われる。
「大学卒」だと役職につきがちで、給料面の優遇はあるかもしれないが、それだけに忖度やら社内調整やら自由度が低くなる。
そのような生き方を避ける、拒否するという選択が「非大学卒」なのかもしれない。
ただ、給料格差については問題は大きくなりつつある印象。
本当に価値ある労働の給料が低く抑えられている点は、もっとクローズアップされるべきだし、もっと要求していくべき問題だ。こここそが「格差」。
そしてもう一つ。
以前は、現場実務がわからない、精通しない「大学卒」「役職者」を支える「実務に通じた補佐役」がいたものだ。
しかし、待遇のせいか、経営者の求心力が低くなってきているせいか、はたまた実務に精通するモチベーションが低下してきているのか、「実務」「現場」と「経営」を結ぶ線が弱くなってきている印象。
相次ぐ企業の不祥事などを見ていると、実務に基づく判断や管理ができなくなってきているのではないかと疑われる事例が多い。
数字だけで判断しているけれども、数字自体が実態を反映していないことに気づかない気づけない。気づく能力がない。
「実務に通じた補佐役」がいれば、実態と乖離した数字、数字の意味するもの、今集めている数字が判断を支え得る内容になっているのか、などなどを解説してくれるだろうに。
報われなくなっても、仕事に対する姿勢というのはそう変えられるものではない。
とはいえ、10~20年くらいたつとその「職業倫理感」的なものも変質し、服われないものに忠誠を尽くすのはバカなのではないか、ばかばかしいのでやめましょう、となる。
いまその時期にさしかかっているのではないか、と懸念する。
これこそが、本質的な「大問題」ではないか??