『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した』日本国憲法 前文より
ウクライナ情勢を見ていると、この言葉に不安を覚える。
平和を愛する諸国民がいても、その力が及ばない。
及ばず、死ぬべきではない死を迎えている人がいるということ。
それが止められないでいるということ。
「諸国民の公正と信義に信頼」しても、死んでしまってはなんともならない。
「諸国民の公正と信義」を信頼できない、ということではない。
それを育てる努力が足らなかったのではないかという後悔である。
今回のウクライナについて、報道や共感の輪や抗議・支援活動は大きく手厚い。
がしかし、その前にも様々な国で同じような問題が起きていた。
それに対しての、報道、共感、抗議・支援はどうであったか。
生活者の安全や生存を脅かすものに対しての、抗議の声は常に上げよう。
それなしに「諸国民の公正と信義」を育てることはできない。
我々個々の、旗幟を鮮明にすることもできない。
『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した』は、悲しい。
他人頼みである。危険である。
危険を顧みずにこの言葉にたどり着いたその過程に見たもののすさまじさを想像して悲しい。
そして、そのすさまじさゆえに他人頼みの「他人」をも説得して「公正と信義」に向かわせると信念を持つに至ったのだろう。
そうであれば、主張し説得する活動をおろそかにしてはいけないのだ。