生活がいきなり戦争に巻き込まれていく、そのこと自体に抗議したい

ウクライナ情勢を見ていて、本当に恐ろしいと感じる。

普通の生活から、一転。いきなり戦争に放り込まれる。

なんでこんなことに?どこかに分岐路はあったのだろうか?

 

他人事ではない、と感じさせられるのは、東京のあちこちにある空襲碑。

これまでは過去にあったことの記録であり、いまある平和が続くことへの祈念である、と受け止めてきた。

 

が、リアルに同じこと(生活者に対する武力攻撃と死者発生、規模や武器は違えども)が今行われている様子を見ると、とらえ方が間違っていた、と思えてくる。

 

過去のことではない。

今自分たちが、空襲にあった方たちとおなじ事態に巻き込まれないために、全力で回避行動をとれ、と石碑たちは警告していたのではないか。

 

また、それは他国の人に対しても同じ。

全力で回避するためにできたこと。なにもなかったとは言えまい。

 

ウクライナ以前にも数々の非道(国際政治的には理屈はあるのだろうが、生活者としては非道な目にあった、としかいいようのない事態)があった。

それに対して抗議の声を上げていくべきだったのではないか。

上げ方がわからない。

 

そのことに甘えてはいなかったか。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。」

 

人間相互の関係を支配する崇高な理想、とは何か?とかわからないところもあるが、

「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

公正と信義、を信頼したり、信頼させたりするためには、態度表明が必要だったのではないか??

 

非道な事態に対して言挙げする。そういった態度が必要だったのではないのか。

諸国民、と書いてあるところこそ重要で、諸国ではない。個人の態度だったり生活者の態度だったり。生活者の集まりだったり。

平和都市だったり平和首長だったり。いろんなレベルで発信可能なのではないか。

 

それを見過ごしていない。我々は認めない。問題である。

対処する機関はないのか?今の体制を考え直すべきではないのか?