鶴を折るということ ~ウクライナを巡って

ウクライナに対して鶴を折るという行動に対して、いろいろな意見があるという。

なんの力にもならない、という声がある。

 

そうだろうか?

考える前に、やってみて、といいたい。

 

かつて同じように思った私は、そう思う人の気持ちはよくわかる。

そして、ほんの少しの時間と実際に手を動かすという行動で、何かが変わるという驚きも知っているのだ。

 

東京大空襲でたくさんの人がなくなった地に長年住んだ。

ひどい話だとも思ったし、3月が近くなると、公共施設に折り鶴を折ってくださいという貼り紙と折り紙がおかれていた。

 

そういう取り組みもあるのだな。情緒的だな。

(共感するが、わたしはやらない)

と思っていたのだ。

なんとなく気が向いて折り紙を手に取るまでは。

 

折り紙を目にしながら、折ることなく20年近く過ぎたある日、何の気なしに折り紙を手に取り、2,3枚持ち帰った。

夜、思いついて鶴を折る。

折りながら、いろいろ考える。

折ったらまた鶴を戻しに行くのかな、とか、折線を上からこすってみた方がきれいかなとか、紫色の方がよかったかな、とか。

それでもまだ折りあがらない。

ああ、あの水辺も亡くなった方でいっぱいになったというけれど、とか、

あの小学校前の公園にもたくさんの人が仮埋葬されたっていってたなとか、

なんでそんなことになったんだろうかとか、

けっしてあんな目にあいたくもあわせたくもないじゃないか、とか、

いろいろなことを考えさせられた。

 

思いをめぐらすための時間をくれたのだと思う。

それこそが「祈る」ということかもしれない。

 

そのことについて思いを巡らす時間をくれる「祈り」の折り鶴なのだと思う。

今は折り鶴を折ることの意味は、だいぶ違って見えてきている。