広島、長崎の原爆の日の式典を何年も見ている。
世界の指導者への訴えがある。
被爆の実相を見て、考えてください。という。
まさに「その通り」だと思う。市民感覚、人間の感覚としては。
でもしかし、指導者の感覚はまた違うのではないかとも思う。
自国にとっての不正義がなされたときの選択肢として武力を持っておく。
最近の見過ごせない一冊に「なぜ働いていると本が読めなくなるのか 」
三宅 香帆(集英社新書) 202404,がある。
忙しいから本が読めないのではなく、欲しい情報以外の「ノイズ」を連れてくる「読書」が労働と乖離したのだという。
自国にとっての不正義がなされたときの選択肢として武力を持っておく。
その時には、より強い武力を持つこと。
勝つことが目的だ。
目的遂行の時には、市民感覚は「ノイズ」であって、排除すべきもの。となっていくのだろう。
その「指導者たち」の感覚は、今年の長崎の平和宣言で引かれた福田須磨子さんの詩でいうところの「原爆を作る人々」の感覚だろう。
それを踏まえてのイスラエル招待せず。
それを受けて、先進7カ国(G7)の日本以外6カ国と欧州連合(EU)の大使は欠席、公使などの出席となった。
本来、訴える対象の面々が欠席したことを残念がる声もある。
が、しかし。
「原爆を作る人々」の側に近い「指導者」たちには、
直接の訴えは「ノイズ」なのだろう。
とすれば、排除しなければならない「ノイズ」ではなく、その訴えを聞いて実現しなければ自らの地盤が危うい「民意」であると迫ることが重要なのではないか?
「被爆の実相を見て、考えてください。」の対象は、市民である我々自身で、「指導者たち」へは我々自身が迫っていかなければならないのだ。
「考えてください」ではなく、「考えたこの結果を実現してください」と。