子どもの貧困「体験格差」に違和感 ~ 別の体験をしているはずで・・・「名前の付く」「金のかかる」体験だけが「体験」かよ?

子どもの貧困について、生活が成り立たないような貧困は解消されねばならない!と思う。

一方で、「体験格差」というものには違和感も。

 

自分が母子家庭育ちで、旅行も、習い事も、部活もしなかった。

でも。

かわりに畑で草取りをしたり、ただただ近くをほっつきまわったり、公園でぼっとしたり。

まあ、単調さを避けるために本は読んだかな。

それでも、その中で考えたり、人と関わったり、いろんな出来事にであったものだ。

 

確かに、人に説明できるような「海外旅行」「水泳」「映画」「ピアノ」など名前付きの体験ではない。

でも24時間365日あれば、誰にでも24時間365日分の体験があるってもんじゃない?

金のかかる24時間365日か、金のかからない24時間365日かって差はあるけど。

 

負け惜しみではなく、「名前がつくような」「金のかかるような」体験の方が薄っぺらいんじゃないか?と思っている。なんか、名前がついただけで何かしたような気持ちになっちゃうじゃん。(たぶん偏見)

 

でも「名前がつくような」「金のかかるような」体験している人は、こっちの体験をしていないわけで、「かわいそう」ともいえる。

 

お互い、「あこがれるのはやめませんか?」だ。

体験が違うのは当たり前なので。

 

唯一問題視できるとしたら、

今の進学形態。

入試に対応する技術が、塾などの教育産業を使わなければ得にくいようであること。

これは、文部科学省やら学校やらがもう少し考えた方がいいと思うが(そんな技術が通用しないように)、なかなか難しいようだ。

 

そうであれば、「学習塾的体験」はあった方がいいのかなぁ。

だんぜんおかしいけどな。

世の中の方が変わるべきだろう。