かつて被爆者調査に関わった身として、日本被団協のこれまでの活動を評価する賞をうれしく思いつつ、彼らの要求が実現していない現状や、「受賞=祝」と短絡に浮かれる報道などに複雑な思いを抱いてきた。
受賞式典での被団協のスピーチや取材への回答など、積み重ねてこられた実のある本質的な謙虚な冷静な言葉に、改めて敬意を抱くばかり。
被爆体験、その実相は、過去を受け継ぐというよりは、まさにその危機(80年前よりずっと強力にパワーアップした脅威)に対面している我々として、学ばずにはいられない切実なものとしてその重みを増してきている。
被爆者の話のかなりの部分は、チェルノブイリ体験者の話に重なり、そして福島の話に重なる。
その話や、関連の事実に触れて、なにを思い考えるのか。
いろいろな方の考えに触れて対話してみたい。
簡単に答えが出ることではないだけに、考える過程を共有することに意味があるのではないだろうか。
対話の機会ももちろんだが、ネットに出ているお祝いメッセージにも、その人がこれまで培ってきた感じ方、知見が現れていて、刺激的だ。
考えさせられる。
受賞理由も、被団協の活動を正当に評価しているように感じられ、
「やるな、ノーベル財団」と思わされました。
そのため、軽々と「受賞おめでとうございます」「お祝い」という政治家などを見ると
首をかしげたくなるのです。