「公共」・・・すれちがい優先順位の共通認識を作るということ

道を歩いていて「なんだよ!」と思うこと多し。

せまい歩道ですれ違う時。

 

複数人が広がって歩いてくる。こちらがひとりでも明らかに通れない程に。

当然、相手が寄ってくれるだろう(こちらはこれ以上幅狭めようと思ったら、横を向くしかないのだから)と思っていても、ぶつからんばかりになってから、窮屈そうに重なり始める。

通れないことに気づいたら、横並びでなく、誰かが前か後ろに少し移動すればいいだけなのに。

 

状況に気づいていること、対処する意思があること、を発信する意味でも、少し早めに行動して欲しいもの。

その行動意識を自然に学ぶ機会が減っているのかもしれない。

 

親も子も忙しくなり、家族と歩く機会も少なくなっているかもしれない。

学校などで外出すれば、あらかじめ広がらないように指導される。

そもそも、なんだか窮屈な道自体が増えているのかもしれない。

 

「公共」ってこういうことを教えてくれるのかなぁ。

 

同じようなことは、電車のドア付近の対応にも見て取れる。

満員電車が駅に着いたときに、ドア付近の乗客が乗降口ふさいだままだったり。

ホーム側の客が、降車客が出てくる前から、開口部に重なるように立っていたり。

急いでいるつもりかもしれないけれど、降車客が降りにくければ、結果は本人にも返っくるのだけれど・・・。