人の手を「借りたり」「貸したり」は当たり前

「人はなぜ、食べなければならないのでしょう。

 それは、厳とした、生命の仕組みだからです。」

 

料理研究家 辰巳芳子さんの言葉です。

(「辰巳芳子の旬を味わう いのちを養う家庭料理」あとがき)

 

「家庭の台所仕事は、積んだりくずしたりの繰り返しで、どれほど愛につられても、自己を見失うような不安ともどかしさに、かられるものであります。」

「私も四十半ばまでこれを乗り越えるのは容易なことではありませんでした。」

 

手間を担う人間は「不安」「もどかしさ」を「自己を見失うほど」感じるものなのです。

 

「しかし、生命の仕組みの前には、これを受容するよりほか道のないことを悟り、今日に至りました。」

 

人が生きていくのは手がかかることなのです。

効率、では割り切れないものなのです。

 

人の手を「貸したり」「借りたり」は当たり前なのです。

それを省こうという努力は否定するものではありませんが、本質をたがえる省き方は避けるべきではないでしょうか。

 

合理的な工夫、とあるべきで。

 

●利用者が少ないから、駅は無人化。人件費がかかるから、駅は無人化。

人がいないからこそ、頼るべきは駅職員、と考えるならば、無人化はむしろ逆行。

 

●地価が高いからスペースを削って通路を狭くする。

地価の高い価値あるエリアには人も密集する。

密集するからこそ、多くの人が互いを意識してすれ違わなければならない。

速い人、遅い人。

高齢者、若い人、幼児。

荷物がある人。

・・・多様な人が通る。

対応するスペースを確保するなら、通路は広さを確保する。

たとえ街なかのマナー江戸しぐさがあったとしても一定のスペースは必要だ。

 

手間の掛け合い、が普通のことに。

効率を高める方向・手間を削ることが、人のありかたを削ることにつながっていないか。

常に心して問うていきたいところです。