「女性蔑視の言葉に傷つく」に違和感→ 世界の見え方がこんなにも違う人が、高い地位についているなら私の生活はよくならないはずだ

話題になっている女性「蔑視」発言。

私は女性だが「蔑視されている」というより、旧時代的な内容でむしろ発言者の認識レベルを疑い、こちらから「蔑視」してしまうのだ。

「今日び、よく恥ずかしくなく、批判を恐れずこんなことがいえるなぁ~」とおもってしまうのだ。

 

 発言者ご本人の見識を疑い「軽蔑」することがあっても、女性である自分自身が「傷つく」ことなどなかったし、むしろマスコミなどで「傷つける言葉」などと書いてあると大いに違和感を覚えるのだ。

 

でも、よく考えてみると・・・

こんなに自分の感性と違う人物が世の中の方針を決定するポジションをしめている。

しかも自分の生活にも関わりがある「政治」業界でも大きなパワーを持っている。

その事実に「傷つく」といえるかもしれない。

この気づきをこそ大事にしたい。

 

見えている世界が違うということは、

・利益分配の正当性の判断も違ってくるだろう。

 たとえば、功績のあった層に手厚く報いる、という場合

 その功績とはなにか。

「自分たちの仲間にとって有利ななにかを成し遂げた」になっているかもしれない。

 われわれ国民にとっての利益、ではないかもしれない。

 とか。

 

・家庭像のイメージも違うかもしれない

 世帯主が十分な報酬を得て、家族はその報酬をもとに一体で生活する。

 とか。そうなってくると、一家の中で、生活給を稼ぐのはひとりでいいとか。

 

・仕事をしている場合、ポジションが高くなることが活躍だ。とか

 女性活躍、にそんな意味合いを含んで、「管理職に●%起用」とかいってますね。

 

政治家など選ばれたはずのリーダーたちが見ている世界像が、自分の希望する世界であり生活であるか、言葉からはしなくも現れてくる世界観に注目していきたい。