やってみねいばわからねぇ 現場でしか見えないこと  ~ 川島秀一さん 漁 海

川島秀幸さん。

65才くらいで漁船の乗組員になったそう。(朝日新聞20211113夕刊)

それまでは学者さん。

大学の教授などを歴任し、日本民俗学会会長。

漁船に乗り組み調査をしてきたけれど、聞き書き調査の限界を感じていたところ、乗子(乗組員)にならない?と誘われたから、とのこと。

 

どんな限界を感じていたのか記事にはないが、現場で見えたもの、が、よい。

心に響いてくる。

 

「以前の調査では売る魚を取る漁ばかりを見てきました。(シタモノ・・刺し網にかかっても売りに出さずに海に戻す貝殻や傷んだ魚・・を外して海に戻す作業に)漁そのものよりも時間をかけていることは驚きでした」

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言葉として理解するのはたやすいが、手を動かし五感で感じその作業が自らの生活時間の中に組み込まれるのでは、全く異なる価値判断が生まれてくると思う。

記事でも「効率や生産性を超えたようにも映る営みだ」と記されている。

 

なすべきこととして組み込まれているということだと思う。

人が食べないでは生きられない、のと同じように。

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同じ記事が、今、東電からの漁業営業補償を受けるには、月10回の出漁と各日毎震災前水揚げ額の1割を捕ることが条件であることを伝え、それに対しての川島さんの見方を示す。

 

「一割なら簡単だと私も思っていたけれど、ゼロの日だってある。何日出なければいけないとか、一割を超えなければダメとか、やはり補償のあり方として違うんじゃないのかな。机の上で計算だけして、海が相手の現場を無視している」

 

もともとの漁業者ではなく、外からの目をを持った人の発言ゆえにより説得力を増す。

 

(一方で、机上の計算しかできず、実態に即さないレベルの低い!?補償方法で物事がすすんでいるのはなぜなのか?どのような対話が行われたのだろうか?との疑問も残る。)

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処理水海洋放出についても

「「漁師たちも魚の食べカスやカニの殻を海に流します。都市の人たちから見ればごみを捨てているように映るけれど、漁師にしたら魚のえさになる感覚です。生き物だから、もとに戻る。でも人工物を流すとなれば、これは別次元の問題です。感覚的に違う」」

「「海に流すことの意味」を考えることが欠かせないと川島さんはいう」

 

「「お金に変えれば喜んでくれるだろう、ってことなのでしょう。魚を捕る、とおいうことはどういうことなのか、よくわかっていないのではないかな」」

 

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あきらかに言葉の意味が違う。

「海に流す」「お金」の意味が違う。

 

直接に何かに触る、触れることにない、抽象概念でモノを考える「現場」以外の人間が物事を決める中枢にいる弊害だと思う。

 

対話をし、必要であれば、自らの体で動くことがなければ、距離は縮まらない。

縮まらない場合、抽象判断を、現場側から拒否することも必要で、そのための力を現場はつけていく。