ウクライナの一般市民が遭っている、
この被害をなんと表現したらいいのかと呆然とする。
集合住宅にミサイル。家を破壊され、死者、負傷者が出。
生活者を巻き込んで、軍事攻撃がなされている。
なんでこうなるのか。
両国、関係諸国に言い分はあるだろう。
が、問題にしたいのはそこではない。
そんな言い分に関わりたくないと思っている一般生活者までもが、こんなにも軽々と巻き込まれていいのか、というところである。
生活者は、国同士の争いに巻き込まれたくない。
巻き込まれないためにできることはあったのか?
こんな事態を防ぐために有効な何か、はあったのか?
我々のいのちは、生活は、そんなものに巻き込まれない尊厳と権利がある、と主張し続けることだ。それを侵せば、高くつくぜ、ということだ。
そんなことはあたりまえでわかりきったことだと思われるかもしれない。
でも、今回はっきりとわかったことだが、我々も頭ではそう思っていても行動では別の動きをしていたのかもしれない。
ウクライナの今と同じように、戦争に巻き込まれた空襲被害者たちがいる。
東京大空襲はじめ日本各地にいる。
空襲だけでない。生活者であった戦争被害者はもっといるのだ。
生活者が戦争により死に、負傷し、家族を失い、孤児になった。
そのことを、補償しないまま、今に至っている。
それは、巻き込まれてもしかたがなかったことだ、と認めているのと同じなのかもしれない。
自らの生活を貶めていることなのかもしれない。今度戦争が起こったときにもしょうがないと受け入れると思わせるのかもしれない。
そんなことをしたら、黙っちゃいないということを明示しよう。
「自衛」は国の専売事項ではない。
生活者こそ、他国に対しても、自国に対しても、自らのいのちと生活の尊厳を主張し続けよう。
生活者こそが、国を超えて連帯できるのかもしれない。
まさに日本国憲法前文のいう「平和を愛する平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようと決意した」、である。
悲しい。