「戦争」というものへの見方を変えた「ものごと」

戦争への態度ってのは、生活を壊される市民と、その生活とは別次元の大義名分を掲げる国と、どっちの立場に立つのか?ということで決まる。

 

国の立場にたてる人ってのは、偉いようでもあり、自分の生活はあまり壊れないとおもっているようでもあり。

 

でも、あまりに簡単に、市民の生活を壊してくれるんだということがわかり、どんなに崇高な理念であっても戦争を選ぶ国はなって欲しくないものだと思う。

 

 

「戦争」なんてわかっていると思っていたけれども、

ありゃ一筋縄ではないとおもった事柄を列記していく。

 

●戦争といってしまうと、交戦国には武器輸出をしないとか金融取引制限をするといった国がある。それを避けたいから宣戦布告をしない、という。

日中戦争は、アメリカの中立法を意識して宣戦布告をしなかった。

 

こんな計算をしながら、戦争は行われているわけだ。

計算の中に、「私の生活」は入るだろうか??

 

焼夷弾の模型を見た時、「空襲」は歴史上の出来事、ではなく、誰かが、具体的な弾薬を具体的な飛行機上から落として実現されたことなのだ、と急に実感された。

具体的な「もの」は、なにかを語りかけてくる。

 

●「私の祖父(だったか?)は、ヒロシマの原爆で殺されました」と話した人がいる。

被爆して亡くなりました」とは違う、ナマな表現に気づかされた。

戦争も爆弾投下も「概念」ではなく、生きている個人が動いてなしたことだ、と。

 

●原爆が落ちたその夜、あの山の向こうに行けば・・・と思っていたが、行く途中でだんだん様子がわかってきた・・・というような話を読んだことがある。

その時、その場にいた人のほとんどはなにが起きたのかわからなかったのだ。

どこが爆心かもわからず、被害実態もわからず、その影響もわからず。