複合機にはナンバーディスプレイをつけない方がいい?

ナンバーディスプレイを受けない設定の機器にナンバーディスプレイをつけるとチンと着信してしばらく通信ができないのだそうだ。

電話の場合だったら受話器をとってもすぐには話ができない。

その話ができない間に、電話番号の情報が流れてくるとのこと。

 

FAXの場合、それで不具合があるかどうかわからないが、チンと音が鳴ってそののちにFAXデータが流れてくるのだろうか。FAXデータの受信までに空白の時間がある、ということになるのだろうか?

 

最近の複合機は、ナンバーディスプレイ利用する/しないが設定で選べるようだが、「ナンバーディスプレイ非対応」のものがあったようだ。つまり選択肢がない。

 

そのため、複合機に使う回線にはナンバーディスプレイつけない方がいい、となったのかもしれない。今は、対応機種かどうか確かめて、設定もすれば問題はないのではないかと思う。

 

発信元表示は、送り手側のFAX機に設定されているもの。通信ネットワークではなく相手側機器からも送られていたのだ。

 

今、ナンバーディスプレイを設定すると、両方の情報を取ることができるのだろうか。通信ネットワークが送ってくるナンバーディスプレイの情報とFAX機が送ってくる送信者情報と。

 

また、1回線にモデムダイヤルインで複合機と電話機なんてつける場合には、発信者番号表示は電話の方の番号、なんてこともあるわけで、FAXが自己申告する「FAX送るならこの番号にお願いね」の番号に送った方が間違いがない。

 

そういう事情もあって、FAXとナンバーディスプレイは少々距離をとっているのかもしれない。

 

伝え聞きの推測記述なのですが、覚書として。

成果主義、競争社会の問題点  ~マイナス方向への競争もあるのだ

成果にあわせて分配を。一見正論のように思える、が。

働く現場にあわせてみた時に、ウマくないのだ。

 

働き手はベストを尽くして仕事をする。

 

常に100%出し切っていては消耗してしまうので、それは持続可能なようにコントロールするけれども、このように働くべきとか、このようなものを納品すべきとか、このような点に注意してとか、自律的に判断して仕事をしているのだ、と思う。

 

その判断が優れていると成果も高い、のだと思うのだ。一般的には。

で、まわりもその高い成果を上げている人のやり方に学ぼうとするのだろう。

 

でも、逆もしかりなのだ。

成果確認項目の設定によっては

こんな風にはたらいちゃおうとか、この程度で納品しようとか、この点は注意しなくっても大丈夫とか、いう働き方でも、むしろ成果としては高い場合が出てくる。

成果項目は定量的なものが多く、すぐに数として反映されない活動(リスク回避や信頼向上のための気配り的行動)は定性的で成果カウントされず、短期的にはロス時間になりがちなので。

 

そうなると、高い成果を上げている人のやり方に批判的な人でも、結果として似てきてしまう可能性が高い。

「このように働くべきとか、このようなものを納品すべきとか、このような点に注意してとか、自律的に判断」の部分。

これは、労働倫理的なものであり、崩れにくいには違いないが、さすがにその倫理を持っていることが低評価につながるようであれば、「自分は倫理と思ってきたが、それは必要とされていなかったのだ」として捨てる努力を始めてしまう。

               (辞めてしまう人が出る場合もまま聞く)

「ムダなことに力を使っていた。より効率的(?)にやろう」とマイナス方向に向けた競争が始まる。

 

なにに対してベストを尽くして仕事をしてもらうのか。

「競争」「成果」は適切な方向であるのか?

その向かう方向にこそ、経営者も心を配るべきであるし、働き手もそこを要求すべきである。

 

これは、理想論ではない。概念でもない。

ごく具体的な欲求と感じられるほど、問題は深まっているのではないか?

企業不祥事を見るときに、常に頭をよぎる問いである。

 

 

 

 

路線バス、遅延情報(事故、渋滞etc)にホームページやSNSを利用してはどうだろう?

首都圏ではあるが、ちょっとはずれのエリアに出かける機会が多い。

以前はなかった遅延がたびたびある。

 

1時間に1,2本しかない路線ではあるが、始発車庫から近い停留所の場合は、予定より10分ほど待ってこない場合は、バス停に表示されている事務所に電話をかける。

 

休日だったり、夜だったりすると、人手も少ないのか応答までの時間もかかる。

 

出てくれた人は、「今、事故で通行止めとなっています」と即答してくれることもあれば、しばらく調べて「✖✖町で渋滞発生中とのこと。」などと教えてくれる。

そして「10分ほど歩いたところにある〇〇停留所の方が早く目的地につけます」など

アドバイスをくれることも。

 

ただでさえ忙しい?事務所に電話するのも気がひける。

が、別路線に移動するべきかの判断材料がない、のも困る。

 

ひょっとして、twitterとかホームページ発信してるかも、と調べてみた。

ホームページもtwitterもあるけれど、観光キャンペーンの発信はあっても遅延情報の発信はない。

 

ぜひ、事故や渋滞など情報があったらその時点でtwitter発信などしてみてはどうか?

問合せ対応も減らすことができる。

 

電話対応しているおじさま方にはなじみがないかもしれないし、それでなにがメリットあるの?と思うかもしれない。

 

社内でも、家族、親族、知人でスマホ使っている人(若い女子がよいように思う)に、聞いてみてください。

どんなにその情報を必要としているか、そしてどう発信したらいいかの方向性はつかめると思いますよ!!

 

*2022年1月から5月の初めまでに3回の遅延に遭遇。

 それぞれ渋滞、経由地間違い、事故であった。

 1回目の時に一緒に並んだ若い女性が電話をかけるのを見て、2回目からはそれに倣って連絡するようになりました。

 

誰も戦争は望んでいない ~ 反戦の主張の弱点

ウクライナ問題を巡って、いろんな人が意見をいう。

テレビで流されたり新聞に載っていたりする。

 

その中で、気になることが。

「誰も戦争を望んでいない」「誰も望んでいない戦争が」

たしかに私も望まない。

そして個々の生活者で戦争を望んでいる人、の存在は想像しにくい。

 

でも、兵器産業とか軍事に携わる人とか組織はどうなのだろう?

過去の戦争の時、その振る舞いはどうだったのだろう。

自分と異なるものの存在やその思考パターン行動パターンを知って考えることが必要かもしれない。対抗しなけばならないから。

 

また、「現状のバランスを崩す侵攻が容認されるわけがない」という意見。

一瞬「そうだ、そうだ!」と思うのだが、「ちょっと待てよ」とも思うのだ。

 

おそらく侵攻する側の言い分は、「過去あったバランスを崩した結果の「現状」をなぜ容認しなければならない?」という可能性が高い。

これに対する説得力ある答えは?

 

やはり、単純化はできない。

単純ではないが、「解」はあるはずである。

 

それを見つけるための、具体的事実の積み重ねと共有。

試論のぶつけ合い。

なにより「解」を見つけようとする互いの、周囲の、「熱量」が重要だろう。

 

 

親身になる、ということ ~どこまでをイメージできるか◆うちわの動く親心&アレルギー対策

寝ていてもうちわの動くおやごころ

エライ親だなと思ってきたが、自分が親になってみて、気づいたことがある。

親の都合もだいぶ混じってるぞ、と。

 

あつい中、添い寝する親が自分も半分寝てしまいながらも我が子をあおぐうちわの手が動いている。

子供に暑い思いをさせたくない親の心情という部分もありつつも、むしろ・・・。

 

暑さで寝苦しく夜泣き(昼寝かもしれないけど・・)が始まったら、本格的に眠れなくなるぞ・・・せめてうちわであおいで今のウトウト状態を保持したい・・・という親側の事情ってものあるんじゃないか?

 

それまでは「親の疲れ」「親だって眠い。寝たい」を理解していなかったので見えなかったのだと思う。

真夏に子供を寝かしつけたりしてみないと実感できないものだろう。

 

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アレルギーを持つ子供の対応として、

肌トラブルの場合、「かいちゃだめ」という。

食物アレルギーの場合は、「食べちゃダメ」という。

 

もっともだが、それができれば苦労はない。

もっともなことがすぐに実行できるわけではない。

子供のことがわかっちゃいない、ということになる。

 

実行への橋渡しをどうするか、ということだ。

それなしには処方箋とは言えないのではないか。

 

それを実際の生活の中で実現するにはどうしたらいいか?

新聞の記事によれば(朝日新聞20220504⑰)、

肌のケアとして、湿疹を手で触って感じることができるようにする。

薬の適量塗布を知る。という具体的な内容もあるようだ。

(感覚的には「こんなにたくさん?」と思うくらい塗る場合もあるらしい。でも医療関係者はそれをわかっていても、生活者はわかっていない。それで治りにくい例も多いのではないか?)

 

食物アレルギーは、原因物質を食べないこと、が第一だろうが、保育園、幼稚園、学校と親の管理下から離れた時に子供がどう行動するのか。

お弁当を持たせればいい、といっても、他の子どもとの関係でのハプニングやたまたま目の前にあった食べ物への興味。

我が子と言えどもその行動は、親だってわかるはずがない。

「大丈夫だろうか??」という恐れは当然で、どんな対策が取りうるのかは個人で考える領域を超えていると思う。

 

そこまで含めた処方箋が必要で、そのための情報の整理や発信が求められている、と思う。

 

問題の本当の解決になっていない処方箋が多すぎるのではないか?と思うのだ。

 

 

 

 

鶴を折るということ ~ウクライナを巡って

ウクライナに対して鶴を折るという行動に対して、いろいろな意見があるという。

なんの力にもならない、という声がある。

 

そうだろうか?

考える前に、やってみて、といいたい。

 

かつて同じように思った私は、そう思う人の気持ちはよくわかる。

そして、ほんの少しの時間と実際に手を動かすという行動で、何かが変わるという驚きも知っているのだ。

 

東京大空襲でたくさんの人がなくなった地に長年住んだ。

ひどい話だとも思ったし、3月が近くなると、公共施設に折り鶴を折ってくださいという貼り紙と折り紙がおかれていた。

 

そういう取り組みもあるのだな。情緒的だな。

(共感するが、わたしはやらない)

と思っていたのだ。

なんとなく気が向いて折り紙を手に取るまでは。

 

折り紙を目にしながら、折ることなく20年近く過ぎたある日、何の気なしに折り紙を手に取り、2,3枚持ち帰った。

夜、思いついて鶴を折る。

折りながら、いろいろ考える。

折ったらまた鶴を戻しに行くのかな、とか、折線を上からこすってみた方がきれいかなとか、紫色の方がよかったかな、とか。

それでもまだ折りあがらない。

ああ、あの水辺も亡くなった方でいっぱいになったというけれど、とか、

あの小学校前の公園にもたくさんの人が仮埋葬されたっていってたなとか、

なんでそんなことになったんだろうかとか、

けっしてあんな目にあいたくもあわせたくもないじゃないか、とか、

いろいろなことを考えさせられた。

 

思いをめぐらすための時間をくれたのだと思う。

それこそが「祈る」ということかもしれない。

 

そのことについて思いを巡らす時間をくれる「祈り」の折り鶴なのだと思う。

今は折り鶴を折ることの意味は、だいぶ違って見えてきている。

クレジットカードの「クレジット」、なにに対する「信用」か?

クレジットカード。

今やその持ち主の「人」を信用しての「クレジット」カードではなくなっているような・・・。

 

クレジットカードを使う時に、その人のサイン、は必要とされない。

クレジットカードを持参し、持参人が機械に差し込んで終わる。

裏面のサインと持参人のサインは突合されない。

「カード」を信用してのクレジットカードである。

 

もっと進んで、ネット決済の場合は。

カード面を確認できればよいということになる。

「カード」すら不要で、その「情報」を信用するということだ。

 

利用者の方がこのことを認識していない。

テーブルでカードを預けたりもする。

クレジットカードを見せたり機械に通したりすること自体がひょっとしてリスクなのではないか?なんて考え始めたらキリもない。

使う時に、その相手は「クレジット」できるのか。

 

これまでは利用者(消費者)側がクレジットされる対象だったが、

加盟店やカード会社やネットプラットフォーマーが「クレジット」可能な相手なのか、が問われるようにもなるのではないか。